4.生産性、安全性そして快適性へ ―ヒューマンファクター工学研究の歴史―

ヒューマンファクター工学の学問的研究は、大きく分けるとアメリカではHuman Factors、ヨーロッパでErgonomicsという分野で行われてきました。どちらもヒューマンファクター(人間側の要因)を研究対象としていますが、中心テーマに違いが見られます。
ヒューマンファクター研究の起源を明確に確定することは困難であり、研究者により考えが異なると思われます。
米国では第一次世界大戦において、陸軍の兵員選抜テストが開発され、適性配置や教育訓練の研究がすすめられました。その後、1927年から1932年まで行われたホーソン実験では、生産能率は「単に物理的な作業条件で規定されるものではなく、職場内の人間的、社会的な環境条件が大きな要因である」といったようなことが明らかにされました。
ハーバード大学のミュンスターバーグは、精神工学という心理学を生活に応用する科学を提唱しました。
1939年から1945年の第2次世界大戦がヒューマンファクターの研究に拍車をかけました。航空機の計器や操作ハンドルなどの研究が行われました。戦後、多くの研究者が産業界に移りました。
研究は実験心理学の応用として行われ、工学心理学(Engineering Psychology)と呼ばれていましたが、やがて人間工学(Human Engineering)になり、ヒューマンファクター工学(Human Factors Engineering)を経て今日のヒューマンファクターズ(Human Factors)となりました。
最近、米国や日本においてはPL(Product Liability)法により企業が製品の安全性について消費者の利用の仕方までも責任を持たなければならないようになりました。このため製品に対する消費者の使用行動について研究するようになったと言われています。
一方、ヨーロッパでは「人間が快適に働くための条件を探る学問分野」であるErgonomicsとして、産業疲労、休息、労働時間といった人間の生理や心理を中心に研究が進められてきました。
原子力でヒューマンファクターがクローズアップされたのは、1979年のスリーマイル島原子発電所2号炉の事故が起こってからです。米国では、原子力業界にヒューマンファクターについての配慮が十分でなかったことを反省し、ヒューマンファクタープログラムプランを作成し研究を始めました。
日本の原子力業界では、TMI-2事故をきっかけとして研究が始まり、1986年のチェルノブイリ事故で本格化しました。その他、航空業界、鉄道業界および化学プラント業界が熱心にヒューマンファクターの問題に取り組んでいます。
米国を中心としたヒューマンファクターの研究は、生産性向上を目的としたものでしたが安全のためにも必要なものであると認識されるようになり、最近では快適性も扱うようになっています。
日本でのヒューマンファクター研究の範囲は、生産性、安全性および快適性向上を目的としており、米国とヨーロッパの両者を合わせたものとなっています 。
さて、日本の医療業界ではどうでしょうか。
残念ながら全く遅れていると言わざるを得ません。日本だけでなく、世界中の医療においてHuman Factorsの視点の欠如が見られるのです。
医療従事者の中でも医師や看護師は慢性的な人手不足の状態にあります。そのため、疲労、ストレス、睡眠不足などの状態にあります。病院の医師の勤務状態は労働基準法に照らし合わせてみると問題があるように見えます。また、医療の作業環境はHuman Factorsの観点から見ると劣悪です。名前や形の似た薬剤、分かりにくい単位、とりあえず作られた手順書、分かりにくく複雑な医療機器、使いにくい電子カルテのインタフェースなど数え上げたらきりがありません。
さらに、医療従事者の能力管理も不十分です。Human Factorsの観点から見ると、現在の医療システム(ここでは病院を思い浮かべて下さい)の抱えている問題を容易に、しかも数多く指摘することができます。
この問題の多い医療システムの改善には、Human Factorsの知見は必ず役に立つと確信しています。

注釈
似たような用語がたくさんあって、本当に混乱します。航空業界や原子力業界ではHuman Factorsを使うことがほとんどです。Ergonomicsを使うことはほとんどありません。日本でヒューマンファクターの問題を扱っている学会は日本人間工学会です。ここの英語の表記はJapan Ergonomic Societyです。ヒューマンファクターに関する世界的に最も大きな学会は、Human Factors and Ergonomics Societyと表記されています。
私はHuman Factorsを「ヒューマンファクター学」という名称で使っていたのですが、どうもうまくいきませんでした。そこで、現場への応用を強調する意味をこめて「ヒューマンファクター工学」という用語を使うことにしました。

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