なぜ、そうしなければならないか、という理由の説明が重要

政府が国民に訴えているコロナ感染を広げない方法は果たしてうまく伝わっているでしょうか?また、それで感染対策は大丈夫でしょうか。
政府は、関係省庁を通じて通達を出したり、マスコミを通じたり、ホームページから国民へのコロナ感染対策を訴えています。例えば、「3密」「ソーシャルディスタンスを2mとりましょう」「〇名以上の宴会はやめましょう」「手を洗いましょう」などと呼び掛けています。はたして、これでうまくいくでしょうか。もちろん、100%の対策は不可能であることは十分理解しているつもりです。ただ、もう一歩、すすめた説明が必要ではないでしょうか。ヒューマンファクター工学的な視点で見てみましょう。
私は、もっと本質的なことを解説すべきだと思います。
感染経路は、すでに説明したように、
(1)飛沫感染 唾が飛んで、それを吸い込んで感染
(2)接触感染 感染者の体液が直接、付着して感染
(3)空気感染 空中に浮遊している水分にウィルスが付着して、それを吸引して感染
です。これらの3つの感染経路を遮断するためには、専門的な医学の知識はあまりいりません。どうすればいいかを考えてみましょう。
例えば、飛沫感染を防止するためには、とにかく“飛沫が飛ばないようにする”、“その飛沫を浴びないようにする” などを実現するために、“マスクを外すときにはしゃべらないようにする”、“マスクを外して何かするときは、飛沫が飛ばないようにする”、など、どう行動すればいいかを自分で考えられるような説明が必要だと思います。
また、感染者と接触しないようにするために、“密着しないようにする”、“感染者の触ったところに触らないようにする”とか、「手を洗いましょう」だけでは不十分で洗うタイミングこそが重要だと思います。“もし触ったと思ったら必ず手を洗うようにする”、“汚れた手で眼や顔を触らないようにする”、“家庭内でもタオルを別にする”、 “エレベータのボタンに触った時は、感染者が触ったと考え、手を洗う”、“銀行のATMのタッチパネルに触ったら手にウィルスが付着していると考え、手を消毒する”、“トイレの床にはウィルスが付着しているので、靴底に触らない”、など、具体的なウィルスのイメージを持ち、それを体内に取り込まないようにすることを説明するのがいいと思います。そういえば、鳥インフルエンザの時はマットがいろいろなところに敷いてあるのですが、今回のウィルス対策で店の出口にウィルス吸着用マットを敷いているところはあまり見ません。
私が講義の中で繰り返し説明している「手順よりも原理の教育」が重要だと思います。三密を避ける、という行動ではなく、なぜ、そうしなければならないか、を教育することが効果的なコロナ感染防止行動につながるのではないでしょうか。手順書を守ることは重要ですが、単に守るだけではなく、なぜ、そうしなければならないのか、という根拠が分かるように説明するのがいいと考えます。

7.どれか一つ起こらなければ・・・―その3 TMI-2事故―

原子力発電所での有名な事故といえば、1979年3月28日米国スリーマイル島原子力発電所2号炉(加圧水型原子炉:略称TMI-2)の事故があげられます。これは、原子力発電始まって以来の大きな事故であり、また運転員の誤判断も重なったため人間の信頼性にも大きく注目された事故でした。
事故は蒸気発生器へ送る主給水ポンプの停止をきっかけとして、そのバックアップとして設けられている補助給水ポンプの出口弁が閉じてあったり、事故時に燃料棒を冷やすための非常用炉心冷却装置が自動的に起動しましたが、運転員が誤判断したことにより停止させるというミスや設計上の不備が重なって大きな事故に発展したものです(図1)。

図1 米国スリーマイル島原子力発電所2号炉(TMIー2)事故の事象の連鎖と背後要因の概要

注目すべき点は、事故は一つの要因で発生するのではなく、いくつかの要因が重なって起きるということです。要因のうちの一つでも取り除いていれば、事故に至らなかったかもしれません。TMIの事故には以下のようにたくさんの要因が含まれていました。
まず第一に、主給水ポンプ停止後、バックアップである補助給水ポンプは起動しましたが、出口弁が2日前の点検の際閉止されたままでしたので水が送られませんでした。
第二に、主給水ポンプが停止し、タービンがトリップ(停止)し、蒸気発生器での熱交換が不能になったため原子炉内の圧力が急上昇しました。このため、加圧器逃し弁が自動的に開いたのですが、その後圧力が下がったにもかかわらず弁は閉じませんでした(図2)。
さらに、中央操作室のパネル上にある逃がし弁の「パイロットランプ」が消えている状態でした 。運転員たちはこの消灯状態が何を意味するのか、教育訓練上の問題もあって弁の状態を正しく理解することができませんでした。

図2 加圧器逃し弁が開いたままになっていた
パイロットランプは逃し弁の制御信号を示していました。この信号が消えた状態は、弁が正しく作動していれば「閉」の状態を示していました。この事故では、自動的に閉まるはずの弁が開いたままの状態だったのです。

第三に、加圧器の水位が見かけ上の水位を表示していいたため、冷却水がどんどん流出していたにもかかわらず、逆に一次系が満水化してしまい設備が破損してしまうことをおそれた運転員は、作動した非常用炉心冷却装置を止めてしまいました。
後から調査すると「なぜこんなことをしたのだ」と思われることが次つぎと出てきたのですが、事故が起こってからの運転員の部分的な対応については、その時その時は、最善の行動をとっていたと考えられます。この2号炉は、試運転以降トラブル続きで、運転員が悪い意味でトラブルに慣れすぎていた面もありました。
今後、このような事故を二度と起こさないようにしなければなりません。そのためには、機器設計マンマシンインターフェース、教育訓練、手順書および管理等の各面で事故の要因となるものを取り除くとともに、複数の要因の連鎖を断ち切るようにすることが重要です。

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5.どれか一つ起こらなければ・・・―その1 テネリフェ空港での事故―

1977年3月21日、大西洋の小島にあるテネリフェ空港でKLM航空とパンアメリカン航空のジャンボ機が滑走路上で衝突し、死者583名の世界航空史上最大の惨事が起こりました。
この両機は目的のラスパルマス空港が爆弾テロ騒ぎで閉鎖され、しかたなくテネリフェ空港に着陸したのでした。テネリフェ空港の駐機場はそんな飛行機であふれていました。おまけに天気が悪く視界が悪かったのです。乗客たちは滑走路のすみのジャンボ機の中で長時間待たされていました。
やがて目的の空港がオープンになりました。最初にKLM機が離陸滑走のために滑走路の反対に移動を開始し、続いてパンアメリカン機がKLM機の後から滑走路を使って反対側に移動しはじめました 。誘導路は他の飛行機であふれていて通れなかったのです。
管制官は、パンアメリカン機にランプ「C-3」に入るように指示しました。誘導路に導きKLM機のために滑走路を空けるためでした。ところがパンアメリカン機は「C-3」を過ぎて「C-4」に入ろうとしました。
KLM機は出発の準備ができたことを管制官に告げました。管制官は、「O.K.」と答え、2秒後に「離陸をスタンバイせよ」と付け加えました。ところが、KLM機は離陸許可されたものと思い滑走を始めたのです。そして霧の中から突如現れたパンアメリカン機と衝突炎上してしまったのです(図1)。

注:飛行機は風に向かって離着陸します。だから移動する必要があったのです。

図1 テネリフェ空港事故時概略

直接の事故原因は、KLM機が無許可で離陸を開始したことですが、これにはいろいろな背後要因が指摘されています。
まず、パンアメリカン機は「C-4」を曲がろうとしたことです。確かに「C-4」の方が航空機の地上走行には自然な気がします。
また天候が悪く管制官も双方のジャンボ機もお互いが見えませんでした。さらに、無線設備が十分でなく、管制官の「離陸をスタンバイせよ」が他機の通信で妨害され、KLM機に伝わらなかった可能性もありました。
さらに、管制官は「O.K.」と答えてしまいました。この言葉は誤解を招く言葉として、管制官は使うことを禁止されていたのです。
その他、KLM機の機長はインストラクターの経験もあり、訓練では管制官の役で自分で離陸許可を出すことをいつもやっていました。
このようにたくさんの事故の要因が指摘されています。「事故は単独の原因では生じない」というのが事故の専門家の間では定説です。
パンアメリカン機が「C-3」をちゃんと曲がっていれば・・・、管制官が「O.K.」という言葉を使わなければ・・・、通信が妨害されなければ・・・、といったどれか一つが生じなければ大事故は起こらなかったことでしょう。
「大事故はいろいろな小さなエラーの積み重なりで起こる」ということが事故解説の結果いつも指摘されます。逆にその小さなエラーのどれか一つが防がれていれば事故にはならないのです(図2)。

図2 事故には背後要因が複雑に絡んでいる

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4.生産性、安全性そして快適性へ ―ヒューマンファクター工学研究の歴史―

ヒューマンファクター工学の学問的研究は、大きく分けるとアメリカではHuman Factors、ヨーロッパでErgonomicsという分野で行われてきました。どちらもヒューマンファクター(人間側の要因)を研究対象としていますが、中心テーマに違いが見られます。
ヒューマンファクター研究の起源を明確に確定することは困難であり、研究者により考えが異なると思われます。
米国では第一次世界大戦において、陸軍の兵員選抜テストが開発され、適性配置や教育訓練の研究がすすめられました。その後、1927年から1932年まで行われたホーソン実験では、生産能率は「単に物理的な作業条件で規定されるものではなく、職場内の人間的、社会的な環境条件が大きな要因である」といったようなことが明らかにされました。
ハーバード大学のミュンスターバーグは、精神工学という心理学を生活に応用する科学を提唱しました。
1939年から1945年の第2次世界大戦がヒューマンファクターの研究に拍車をかけました。航空機の計器や操作ハンドルなどの研究が行われました。戦後、多くの研究者が産業界に移りました。
研究は実験心理学の応用として行われ、工学心理学(Engineering Psychology)と呼ばれていましたが、やがて人間工学(Human Engineering)になり、ヒューマンファクター工学(Human Factors Engineering)を経て今日のヒューマンファクターズ(Human Factors)となりました。
最近、米国や日本においてはPL(Product Liability)法により企業が製品の安全性について消費者の利用の仕方までも責任を持たなければならないようになりました。このため製品に対する消費者の使用行動について研究するようになったと言われています。
一方、ヨーロッパでは「人間が快適に働くための条件を探る学問分野」であるErgonomicsとして、産業疲労、休息、労働時間といった人間の生理や心理を中心に研究が進められてきました。
原子力でヒューマンファクターがクローズアップされたのは、1979年のスリーマイル島原子発電所2号炉の事故が起こってからです。米国では、原子力業界にヒューマンファクターについての配慮が十分でなかったことを反省し、ヒューマンファクタープログラムプランを作成し研究を始めました。
日本の原子力業界では、TMI-2事故をきっかけとして研究が始まり、1986年のチェルノブイリ事故で本格化しました。その他、航空業界、鉄道業界および化学プラント業界が熱心にヒューマンファクターの問題に取り組んでいます。
米国を中心としたヒューマンファクターの研究は、生産性向上を目的としたものでしたが安全のためにも必要なものであると認識されるようになり、最近では快適性も扱うようになっています。
日本でのヒューマンファクター研究の範囲は、生産性、安全性および快適性向上を目的としており、米国とヨーロッパの両者を合わせたものとなっています 。
さて、日本の医療業界ではどうでしょうか。
残念ながら全く遅れていると言わざるを得ません。日本だけでなく、世界中の医療においてHuman Factorsの視点の欠如が見られるのです。
医療従事者の中でも医師や看護師は慢性的な人手不足の状態にあります。そのため、疲労、ストレス、睡眠不足などの状態にあります。病院の医師の勤務状態は労働基準法に照らし合わせてみると問題があるように見えます。また、医療の作業環境はHuman Factorsの観点から見ると劣悪です。名前や形の似た薬剤、分かりにくい単位、とりあえず作られた手順書、分かりにくく複雑な医療機器、使いにくい電子カルテのインタフェースなど数え上げたらきりがありません。
さらに、医療従事者の能力管理も不十分です。Human Factorsの観点から見ると、現在の医療システム(ここでは病院を思い浮かべて下さい)の抱えている問題を容易に、しかも数多く指摘することができます。
この問題の多い医療システムの改善には、Human Factorsの知見は必ず役に立つと確信しています。

注釈
似たような用語がたくさんあって、本当に混乱します。航空業界や原子力業界ではHuman Factorsを使うことがほとんどです。Ergonomicsを使うことはほとんどありません。日本でヒューマンファクターの問題を扱っている学会は日本人間工学会です。ここの英語の表記はJapan Ergonomic Societyです。ヒューマンファクターに関する世界的に最も大きな学会は、Human Factors and Ergonomics Societyと表記されています。
私はHuman Factorsを「ヒューマンファクター学」という名称で使っていたのですが、どうもうまくいきませんでした。そこで、現場への応用を強調する意味をこめて「ヒューマンファクター工学」という用語を使うことにしました。

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3.経験的アプローチと理論的アプローチ ―経験の重視と科学的手続き―

いろいろな対策を考える時、現場のエキスパート(熟練者)の経験や知識は極めて重要です。エキスパートの直感と言われるものは後でゆっくりと検討してみると、まさに的確な判断である場合も少なくありません。これは膨大な量の経験を持ったエキスパートが本質を見抜き、とっさに出した最適解と考えられます。この「経験的アプローチ」による対策は、現場の状況や制約条件がよく考慮されていて即効性があり効果の期待できる場合が多いものです。
しかし、経験的に言われているものがいつも正しいとは限りません。また、世の中の経験的に正しいとして行われていることも科学的手続きで調べてみるとそれが証明できないことがあります。経験だけに頼り、ある部分だけを最適にすると全体のバランスを壊す場合もあります。
これを補うものとして、もう一方の「理論的アプローチ」があります。
理論的アプローチでは、理論やデータを用い、科学的手続きをとります。ヒューマンファクター研究は理論的アプローチに属します。これには二つの流れが考えられます(図1)。

図1 理論的アプローチでは、理論の現場への応用と、
現場の経験の理論化の作業が重要である。

一つは「現場→フィールド研究→実験室実験→理論化→現場」という現場のエキスパートの持っている知識や直感の背景を理論化し、それを現場に適用するという流れです。たとえばリーダシップを考えて見ると、これまでは経験的にリーダに必要な資質について研究されてきました。最近になってそれらの成果をもとに実験室で小集団を対象にし、刺激を制御し、その影響を観察分析するという科学的手続きによる研究が行われるようになりました。
経験的な知識や直感を理論化する利点は普遍性にあります。他への応用が可能となり経験の共有化、経験の省略、次の世代への伝承などが可能となります。
理論的アプローチのもう一方の流れは、「理論→実験室実験→フィールド研究→現場」という基礎科学の成果を現場に適用するという流れです。新しい機器や表示方法の設計についてこれまでに得られた知見、たとえば人間の注意の範囲や情報処理の限界を考慮して設計するといったことがこの流れです。
理論的アプローチでは研究の過程で現場の観察や実験を行いデータを集めます。このデータから変量間の関係を明らかにしようとします。実験室実験はフィールド研究と比較して、変量への影響を最小限にコントロールできるので要因間の相関関係、因果関係を明確にすることができます。
しかしながら人間を研究対象としている人間科学はそれほど発達しているわけではありません。人間行動については、まだまだ未知な部分がたくさんあります。特に困難なのが測定です。人間の身長や体重は簡単に測定できますが、頭の中で考えていることや心の動きを測定することは大変むずかしいのです。
結局、対策には経験を重視し理論を利用するといった相補的なアプローチが大切です。「経験と理論」、切っても切れない重要な関係です。

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2. Human Factorsと工学 ―理論を現場へ―

Human Factors(大文字で始まり、常に複数形:日本語ではわかりにくいのでここで説明した後は「ヒューマンファクター工学」と呼ぶことにします)を工学と大まかに比較してみましょう。
どちらも原理や理論を追究するというよりも、ある基礎的理論を現実の日常生活に利用することを目的としています。工学とは「工」という字が示しているように、上の「一」が示している天の法則と、下の「一」が表している地の現実社会を「|」で結びつける学問と教えてもらったことがあります。Human Factorsも「H」の左の「|」が示す人間の諸特性と、右の「|」が示す日常生活を「-」で結びつける学問と、工学と同じように考えることができそうです(図1)。

図1 Human Factorsも工学も基礎科学をモノに応用する

両方とも日常生活での応用を目的とし、工学では「物(モノ)」をHuman Factorsでは「者(モノ)」を対象にしています。
工学(Engineering)は、基本的に物理学(Physics)をベースとしていますが、Human Factorsは、人間科学(Human Science)や生命科学(Life Science)などをベースにしています。
工学の中でも、原子力工学や航空工学は、材料工学、電気工学、制御工学などいろいろな工学が集まっている総合工学です。一方、Human Factorsも、医学、心理学、社会学、統計学、認知科学といった学際的な分野です。
以上のことから、Human Factorsと工学の基本的な考え方はほとんど同じであると考えることができます。両者の違いは、研究の対象やベースにしている学問にあります。ところが、ベースにしている物理学と人間科学では、解明の程度が大きく違っているのです。
物理学で扱う変数と人間科学で考慮しなければならない変数とを比較すると、人間科学での変数の方が圧倒的に多いと考えられます。取り扱う変数が少なく単純なものと、変数の数が多く、それが複雑に絡み合っているものとでは、両者の違いは理論化の困難さとなり、それは予測の確かさに現れます。
物理学では、ほとんどの変数の関係は簡単な数式によって表わせます 。そして、だいたい予想どおりの結果が出ます。たとえば、1リットルのガソリンで走る車の距離は条件が同じならだいたい同じです。一方、人間の行動の予測はなかなかうまくいきません。自分自身を例にとっても考えや行動は昨日と今日では違っていることも多く、どうして変わったのかの理由がたくさんあることに気づくと思います。あるいは、理由そのものが分からない場合もあります。
工学は原理や法則が明確で取り扱いやすいのですが、人間相手のHuman Factorsは、ベースとしている人間科学が十分発達しておらず、また応用の面で難しいことが多いのです。Human Factorsは、まだまだ未知の部分の多い分野だと言えるでしょう。
輸送システムや発電システムといった人間と機械から構成されたシステムに、工学は物理学の成果を利用して機械のパフォーマンス向上に寄与し、一方、Human Factorsは人間科学の成果を利用してそこで働く人間のパフォーマンス向上に寄与するのです。こうしてシステムは所定の目的を達成できるということになります(図2)。医療システムも機械と人間で構成されているので同じように考えることができるでしょう。

図2 工学は主に機械のパフォーマンスを向上させ、
Human Factorsは人間のパフォーマンスを向上させる

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1.ヒューマンファクターって、なに?  ―ヒューマンファクターの定義 (3)―

さて、ここまでヒューマンファクターに関する定義を説明してきましたが、ここで筆者の執筆した東京電力株式会社ヒューマンファクター研究室編「Human Factors TOPICS(1994)」の定義を紹介します。
●ヒューマンファクター
人間と機械等で構成されるシステムが、安全かつ効率よく目的を達成するために、考慮しなければならない人間側の要因
●ヒューマンファクター学
人間に関する基礎科学を、人間と機械等で構成される産業システムに応用して、生産性、安全性および人間の健康と福祉を向上させるための応用的科学技術

その後、筆者は医療用に定義を見直しましたので定義を紹介します。
■ヒューマンファクター
人間や機械等で構成されるシステムが、安全かつ効率よく目的を達成するために、考慮しなければならない人間側の要因
■医療ヒューマンファクター工学
人間に関する基礎科学で得られた知見を、人間や機械等で構成される医療システムに応用して、安全性、生産性および医療システムに関係する人間の健康と充実した生活を向上させるための応用的科学技術
(注:ヒューマンファクター学をヒューマンファクター工学としました。その他、「福祉」を「充実した生活」としました。)

まず、要素としてのヒューマンファクターですが、これはここにある通りです。人間や機械などで構成されるシステムとは、今日の労働の現場はほとんど当てはまるでしょう。原子力発電システム、航空管制システム、交通システム、航空機、自動車、医療システムなどです。人間だけで構成される組織なども広い意味でシステムと考えてもよいでしょう。
そのシステム(組織)は必ず目的を持っています。そこでこの目的を安全に、かつ、効率よく達成することが大事です。安全を無視してはダメであり、しかし、安全のために効率を無視すると、システムそのものが成立しなくなります。
知識体系としての定義については、生産性と安全性を求めるだけでは足りません。そこで働く人間を無視してはなりません。例えば、「法外な報酬を与えるので36時間連続して働け」、というのは人間への配慮を欠いています。できないことはないかも知れません。また、報酬が大きいのでそれでもいいという人がいるかも知れません。しかし、36時間連続して働くことは、もともと人間の持っている生理的心理的身体的限界を超えています。そのような仕事の仕方をしていたら体を壊すかもしれません。したがって、システムの目的を安全に効率よく達成する時に、人間の持つ心理的、生理的、身体的限界を超えないだけでなく、そこで働く人が満足感の得られるような場合にのみ、システムが存在する意味があるというものです。人間を犠牲にしてもシステム目的を果たすことは、長期的に見ると許されることではないのです。
筆者の定義するヒューマンファクター工学では、ヒューマニズムの視点を入れました。
参考として、広辞苑(第四版)から工学の定義を紹介しますので、ヒューマンファクター工学の定義と比較してみてください。
工学(engineering):基礎科学を工業生産に応用して生産性を向上させるための応用的科学技術の総称
また、Oxford Advanced Learner’s Dictionary of Current English, 1989では、
engineering : practical application of scientific knowledge in the design, construction and control of machines, public services such as roads, bridges, etc. となっています。
工学は、主に物理学をベースにして得られた法則を、現実の世界に適用するという応用的科学技術として考えられていましたが、最近では、金融工学というような使い方がされていて、必ずしもハードウェアだけを対象にしたものとは限らなくなっています。広い意味では、組織や法律なども工学の取り扱う分野になっていると言えるでしょう。
英和辞典では、engineeringの訳として、工学、工学技術、巧みな工作、たくらみ、画策というようなものが挙げられています。
筆者の気持ちとしては、「ヒューマンファクター学」という用語を使いたいのですが、現場への応用を明確に伝えるために、ヒューマンファクター工学という言葉を使うのがよいと考えています。

参考文献
Swain, A. D. and Guttmann, H. E., Handbook of Human Reliability Analysis With Emphasis on Nuclear Power Plant Application, Sandia National Laboratories, NUREG/CR-1278, U. S. Nuclear Regulatory Commission, Washington, DC, August 1983.

目 次

1.ヒューマンファクターって、なに?  ―ヒューマンファクターの定義 (2)―

一方、知識体系としての定義には以下のようなものがありました。

(1)Edwards, E. Human Factors in Aviation, edited by Wiener, E. L. & Nagel, D. C., Academic Press, 1988
 The technology concerned to optimize the relationships between people and their activities by systematic application on the human sciences, integrated within the framework of system engineering.
(2)黒田勲、小特集:ヒューマンファクター、電気学会雑誌10月号、1993年
 機械やシステムが、有効かつ安全にその機能を発揮するために必要な人間の能力、人間の限界、人間の特性などに関する知識の集合体である。
(3)日本航空技術研究所、ヒューマン・ファクターガイドブック、1995年
 環境の中で生きる人間をありのままにとらえて、その行動や機能、限界を理解し、その知識をもとに人間と環境の調和を探求し、改善すること
(4)全日空総合安全推進委員会、ヒューマンファクターズへの実践的アプローチ、1993年
 人間にかかわる多くの学問領域での知見をシステムの安全性や効率向上に実用的に活用しようとする総合的学問/技術の体系(もっと実践的にいえば有用な概念・知識と手法の集まり)のこと
(5)日本エアシステム(現在は、株式会社日本航空)
 人間を取り巻く環境の中で安全に快適に効率よく働けるようにするため、人間の特性・能力・限界に関する知見を総合的に応用し、人間と機械やシステムとの調和のとれた共存について探求する実践的学問
最初の、Edwardsの定義は、ICAO(国際民間航空機構)のannexで用いられているものです。仮に訳してみますと「システム工学の枠組みの中で統合された、人間科学の体系的な応用によって人間と諸活動の関係を最適化するための技術」ということになるでしょうか?
ここでのヒューマンファクターは、ヒューマンファクタースですから、知識体系としてのヒューマンファクターです。
黒田の定義は、明らかに知識体系としての捉え方です。
日本航空の定義は、ちょっとニュアンスが異なっています。「改善すること」が定義になっているところに特徴があります。
全日空、日本エアシステムなどの定義を見ると、知識体系あるいは学問という捉え方をしています。

知識体系としてのヒューマンファクターの定義を見ると、次の共通点が見られます。
1.人間や機械で構成されるシステムの存在
2.システムの達成すべき目標があること
3.環境と人間の調和を求めること
4.安全性を追求すること
5.効率を追求すること
6.人間の諸限界を理解すること
7.実用的あるいは応用的で、役に立つものであること
こうして並べてみると、知識体系としてのヒューマンファクターのイメージをぼんやりと描くことができるのではないでしょうか?

目 次

医療従事者のためのMedical Human Factors TOPICS

これから少しずつ解説していく予定です。


はじめに
目次

Ⅰ.ヒューマンファクターとは?

  1. ヒューマンファクターってなに?-ヒューマンファクターの定義-
    (1)  (2)  (3)
  2. ヒューマンファクター工学と工学-理論と現場
  3. 経験的アプローチと理論的アプローチ-経験の重視と科学的手続き
  4. 生産性、安全性、そして快適性へ-ヒューマンファクター研究の歴史
  5. どれか一つ起こらなければ・・・その1-テネリフェ事故
  6. どれか一つ起こらなければ・・・その2-航空機のガス欠
  7. どれか一つ起こらなければ・・・その3-TMI-2事故
  8. モデルってなに?-複雑なものを考えやすくする
  9. 小さな事にも気をつけて-ハインリッヒの法則
  10. 常に正しい判断-人間の行動は何で決まるか
  11. 状況認識-状況認識を誤ると間違える
  12. リスクの積み木-少しでも低くすること
  13. 車検に出したら車の調子がおかしくなった-システムにおける人間の介在-
  14. 指差呼称は有効か?-忙しい時こそ指差呼称-
  15. ダブルチェックは有効か?-どんなベテランも人間である-
  16. ヒューマンエラーとは―人間特性と環境の相互作用の結果―
  17. ヒューマンエラーの分類―観点によって異なる分類―
  18. RCAはたくさんある―RCAは一つという日本の医療界での誤解―
  19. Rootとは木の根のこと―「根本」という訳が誤ったイメージを与えた―
  20. VA-RCA とImSAFERの違い(1)―出来事流れ図と時系列事象関連図―
  21. VA-RCA とImSAFERの違い(2)―手順の重視か、考え方の重視か―
  22. 原子力、航空、医療システムの違い(1)―科学技術、技術科学、経験科学―
  23. 原子力、航空、医療システムの違い(2)―通常状態と異常状態―
  24. 原子力、航空、医療システムの違い(3)―どんな人が制御するか―
  25. 原子力、航空、医療システムの違い(4)―情報源の量と質の違い―
  26. 原子力、航空、医療システムの違い(5)―制御方式の違い―
  27. 原子力、航空、医療システムの違い(6)―医療は本質的に不確定性が高い―

Ⅱ.人間はシステムの中心
-ヒューマンファクター工学の概念モデル-

  1. ライブウェア -システムの中心
    (1) まだまだ若いと思っても・・・-加齢の影響-
    (2) 身体の中の時計-サーカディアンリズム-
    (3) 同じことでは飽きてしまう-心的飽和-
    (4) マジックナンバー7±2-人間の情報処理の限界-
    (5) もっと注意して?!-注意の性質-
    (6)「左警戒右注意」-人間の情報処理の特徴-
    (7) 目は口ほどにものを言い-瞳孔反応-
    (8) 神経質なA型、おおらかなO型・・・?-えせ心理学に騙されるな-
    (9) また、あいつが!-ヒューマンエラーのリピータ?-
    (10) リピータへの対処-個人特性よりも環境に着目-
    (11) 虫が知らせた-いつもと違う何かがある-
  1. ライブウェア-ライブウェア -人間関係-
    (1) みんなが言うからいいや-集団への同調-
    (2) 間違っていると思うんだけど・・・-権威勾配-
    (3) 自分ひとりくらい・・・きっと誰かが・・・-社会的手抜き-
    (4) 行け行けどんどん-リスキーシフト-
    (5) リーダーはつらいよ!-情報収集の大切さ-
    (6) いろいろあるけれど-コミュニケーションの大切さ-
    (7) 職業的正直-できないことをできないと口に出して言う勇気-
    (8) 音声によるコミュニケーションの基本-Read backとHear back-
    (9) Read backとHear backでオーケーか?(1)-言葉の意味の共通理解-
    (10) Read backとHear backでオーケーか?(2)-期待聴取-
    (11) 期待聴取Wishful Hearingへの対応-聞かせない、使わせない-
    (12) チームパフォーマンスこそ重要-CRMの進め-
    (13) 集団浅慮-Group Thinking-
    (14) 民主型、独裁型、放任型-リーダシップのはなし-
    (15) Two-Challenge-Rule-納得できるまで食い下がれ-
    (16) 行動はウソをつかない-耳を塞ぎ、目を大きく開けて行動を観察せよ-
  1. ライブウェア-ハードウェア -人間とモノ-
    (1) システムから人間を排除できるか?-人間と自動化-
    (2) 感覚を奪わないで-自動化による感覚遮断-
    (3) こんなことできないよ-モードの問題-
    (4) 美しい並び、しかし使いにくい-工学的美しさと使い勝手-
    (5) 何をするかがわかるには-機器デザインの原則-
    (6) どっちがどっち?-自然な対応付け-
    (7) フールプルーフとフェイルセーフ-設備の安全対策-
    (8) メカニカル・フューズ -壊れやすくする-
  1. ライブウェア-ソフトウェア -人間とソフトウェア-
    (1) 暗記でやるのは禁止-チェックリスト
    (2) わかりやすいマニュアルづくり-心的回転-
    (3) ぱっと見ればすぐ分る-表示は何のためにあるのか¬-
    (4) 知識は頭の外にある-記憶への負担を少なく-
    (5) 記憶を助ける手がかり-色分けだけでは不十分-
    (6) 下手な文字はリスクが高い-見たいものを見る-
    (7) 安全マニュアルはいらない-標準手順を守れば安全が確保される-
    (8) 誰でも使えるマニュアル -ビッグハンバーガーを3つ下さい-
    (9) 色分けは有効か? -記憶を使わない照合-
    (10) テクニカル・ライティング -分かりやすく-
    (11) ルールを守る者がルールに守られる -愚直にルールを守る-
  1. ライブウェア-環境 -人間と環境-
    (1) 現場の作業環境いかかですか?-気温と体-
    (2) うるさいっ!-手術室に音楽-
    (3) あなたは、森林浴派ですか?紅茶にレモン派ですか?-においの話-
    (4) 上手につき合って!-ストレスの話-
    (5) 物の配置-5Sの勧め-
    (6) あっ、大変だ!-緊急時の行動-
    (7) まず、「落ち着け!」と大きな声で-緊急時への対応-
    (8) 乱雑な作業環境-安全と効率の阻害要因-

  2. ライブウェア-患者-医療従事者と患者-
    (1) 患者は変化している-常に最新の情報に基づくこと-
    (2) 情報は積極的に聞き出すこと-患者は自分からは言わない-
    (3) 患者は常に「ハイ」と返事をする-世間の常識は通用しない-
    (4) 患者の勝手な判断はリスクを高める-どんな優秀な医師でも情報がなければ正しい判断はできない-
    (5) 医療事故にあわないために-患者安全の10条-
    (6) 患者は恥ずかしい-あなたはポータブルトイレを使ったことがありますか?-
    (7) 家で転ぶ人は環境が変わるともっと転ぶ-イメージと実力のズレ-

  3. マネージメント-すべての要素にかかわる最も影響力の大きな要素
    (1) 安全文化-安全を常に最優先させること-
    (2) 創造的批判の文化-いいことのための議論-
    (3) 安全は存在しない-リスクマネージメント-
    (4) 安全報告制度-安全文化のバロメータ-
    (5) 組織文化-高いところと低いところ-
    (6) 教育訓練の仕組みを作る-知らないことはできない-
    (7) 積極的に情報を集める-カモシレ事象とキニナル事象-
    (8) エラー誘発要因が多く防護壁が弱い-医療システムの構造-
    (9) 事件は現場で起こっている!-すべては現場から-
    (10) 安全と効率と品質は同じベクトル-安全と効率は密接な関係-
    (11) 日本帝国陸海軍の愚-バラバラ-

おわりに